第62話    「久しぶりの竹竿作り W」   平成17年06月22日  

私が竿を矯める時、まず竹の節を起こしてから、次に少し間をおき竹の熱を冷まして、その後節間を真っ直ぐになるようにして矯めている。その方が自分にとって竹を矯めるに簡単で良いと思っているからだ。竿師によっては節間を真っ直ぐにしてから、次に節を起こす人等色々と居るようだ。要は竹を真っ直ぐにして、竿になれば良いのだと思っている。大抵の竿師の方々は自分のやり方には、絶対の自信を持ち、こだわりを持っているから自説を曲げようとはしない。

ただし、竿を矯めるコツを会得するには、長年の経験を必要とするから数をこなさなくてはならないと思う。まず竹の安全に矯める事が出来る限界を知らなければならない。それが分からないと折角の竹を折ってしまう事になってしまう。その為曲がり方が極端で、一回の矯めで矯正出来ず、少しずつ数日かけて曲がりを直す場合もある。一度に曲がりを治すと竹の繊維が切れてしまう事もあるから気をつけなければならない。そんな事など頭では分かっている筈なのだが、やはり折ってしまう事がある。やはり経験を通して昔の竿師や職人の様に、竹の矯め方は急がずじっくりと身体で覚えねばならない。芽取りにしても、各人各様色々なやり方でやっているし、その方法はひとつではない。小刀のみで綺麗に仕上げている人も居れば、小刀で大方の形を作り後で木賊がけを最後の仕上げとしている人もいる。仕上り方も当然異なって来る。袴のとり方にしても多少異なる。上手な人は一刀できれいに取っているし、下手な人は何度かに分けて取り除いている。作者の個性があちこちに出てくる。だからそんな癖を見抜いて竿を作った人が誰なのかが、その竿の仕上げを見れば大抵の見当がつくと云われている。庄内にはそんな竿の鑑定家の人たちが少なからず居た。古来より竿に傷をつけることを極端に嫌う習慣があって、銘が入っていない竿が数多く存在していたから、それらの目利き達が何人か集まって酒を酌み交わしながら鑑定したりする事も楽しみの一つであった。

我々素人は竿作りをしようとすると、どうしても頭で覚えようとする。一方竿師や職人さんたちは目と手を使って勘を養い、それを自然のうちに身体でその技を習得して来た。工程の中の竿の芽取りや矯めの手加減、焙る時の火加減などすべて眼と手と勘によるものである。生まれながらにしてその人が持つものに、努力と経験で培われたものが、いくらプラス出来るかどうかで竿職人になれるか竿師になれるかが決まって来る。竹薮の多くの竹の中から、竿に適する竹を選ぶのも、それなりの眼と勘が必要だ。素人はただ真っ直ぐで細身の竹だけを探すが、玄人の人たちはどんなに曲がった竹でも、良い竿になりそうだと思うと平気で採って来るのを何度も見ている。子供の頃こんなに曲がっている竹が、どうして真っ直ぐになるのか不思議でならなかった。「昭和の名人山内善作が火に炙って竹を矯めれば、どんな竹でも不思議なほど自由自在に竹をあしらい矯められた」と伝えられている。事実その通りなのだ。

癖のある竹ほど苦労して何年もかけて矯めて行けば、釣りをした後で癖が出て曲がっても翌日には不思議なほど真っ直ぐになり元に直る。「昔の名竿に大物が何枚か釣れて、竿が腰抜け状態になってしまった!」と嘆いていた竿が、翌日にはピーンと真直ぐに元の状態に戻っていたと云う話を良く聞居た事が何度となくある。竹の繊維が生きていて、何十年経っても使える状態になっているからである。だから手入れる必要である。名竿はただの竿ではない。安竿とは一線を画すものであるから、お値段の方も、格段に高いのも頷ける。使うたびに手入れの必要な手数のかかる安竿でも、使えば愛らしく感ずるものである。まして自分が手間隙かけて作ったものともなれば・・・・・!